青春シンコペーションsfz


第1章 あ、開かない……!(2)


「今、何て言ったの?」
彩香が思わずその顔を見る。普段の彼は決してそんな物言いをしないからだ。
「この花を戻せと言ったんだ」
発した語気の強さに自分でも驚いたが、今更退くことは出来なかった。
「戻すですって、馬鹿げてるわ。ここには薔薇の方が相応しくてよ」
「そうかもしれない。でも、それは今朝、美樹さんが庭から切って来たばかりなんだ。彼女も好きだと言っていたし、大事にしたいんだ。この花だって充分きれいじゃないか」
井倉は静かに息を吐きながら言う。
「そう。美樹さんが……。じゃあ、彼女に訊いてみればいいじゃない。ここに飾るのなら、どっちの花が似合ってるか」
彩香の目は花瓶の薔薇だけを見つめている。
「そんな……。花は花じゃないか。薔薇も浜撫子も両方きれいなのに……」
気まずい空気を握り込むように井倉が言った。

「薔薇を飾りましょう」
入り口のところから声がした。丁度階段を降りて来た美樹がそこに立っていた。
「彩香さんの言う通り、その花瓶には薔薇の方が合うと思う。浜撫子は洗面所に飾りましょう」
「でも……」
井倉は納得が行かなそうに渋い顔をした。が、美樹はさっと屑籠の中の浜撫子を拾うと洗面台の方へ持って行った。

井倉が追って行くと、美樹は丈を短くして小さな花瓶に差していた。
「ほら、この方が可愛く収まった」
彼女が微笑する。
「すみません」
井倉が謝る。
「あなたのせいじゃないわよ」
「でも……」
「彼女は正しいことを言っただけ……。ね? だからもう気にしないで」
「はい」
井倉はそう返事をしたものの、何かが喉に引っ掛かっているような気がして落ち着かなかった。
(彩香さんに悪気がないことはわかってる。でも、彼女の感覚はいつも少しだけ僕とは違っている。価値観が違うのは別に構わない。でも……。やっぱり合わないのだろうか。僕ら庶民とは……。僕では駄目なんだろうか)


ハンスの客は音楽評論家の藤倉とGSミュージックの岡崎という人物だった。彼らは共にコンクールでハンスの演奏を聴き、その実力に惚れ込んでいた。彼が今まで一度もレコーディングしたことがないと聞くと岡崎は何としてもその音源を自分の会社から出させて欲しいと交渉して来たのだ。
「CD? そんなのいけません。僕の音楽は生き物です。そんな風に閉じ込められたら死んでしまう。僕はいやです」
ハンスは頑として彼らの説得を拒んだ。

「それは重々承知しております。私共も長年、演奏家の方々と交流して参りましたし、まさに音楽は生き物であるということも実感しております。しかし、今は技術も進み、随分と水準も上がって参りました。生の息遣いもそのままに臨場感のある音をお届け出来るようになりました。きっと満足していただけると思います」
「何と言われても駄目なものは駄目です」
熱心な岡崎の誘いをハンスは撥ね付けた。
「そういえば、ハンス先生はご自分で作曲とかはされないのですか?」
藤倉がそれとなく話題を逸らす。
「それは……幾つかは作ったこともあるけど、僕は楽譜とかには書けないし、全部僕の頭の中にあるから……」

「もし、それらの曲を楽譜に起こしたいのでしたら、私がお手伝い致しますよ」
藤倉が身を乗り出して言った。
「実は、私の特技と言いますか、聴いた音は一音漏らさずに書き起こすことが出来る自信がありますので、ご入り用の時にはぜひ、お声掛けください」
「一音漏らさずに?」
ハンスは疑い深げに藤倉を見つめた。が、男は自信たっぷりな様子でソファーに座っている。
「わかりました。じゃあ、その実力を試してもいいですか?」
ハンスが立ち上がった。
「もちろんです」
藤倉は隣の岡崎に目配せすると、ハンスの後に付いて行った。

「井倉君、楽譜書ける奴持って来て」
ハンスが言った。教室に音大生も来るようになったので揃えておいたのだ。
「それじゃあ、これから地下で僕が弾く音を書き取ってもらう。そして、ちゃんと合ってるかどうか井倉君に初見で弾いてもらいます。それではっきりすると思うから……」
「えっ? 僕が弾くんですか?」
井倉はそれを聞いて身が震える思いがした。
「君だってピアニストを目指しているのだから、当然それくらいのこと出来るですよね?」
ハンスに言われてますます身が竦んだ。
(ど、どうしよう? そんなの責任が重過ぎますよ、先生)

井倉は救いを求めるように黒木を見た。が、教授は腕を組んだきり、うんうんと頷いている。
「井倉、これは栄誉のことなんだぞ。望んだとて、ハンス先生がお作りになった曲を初見で弾かせてもらえるなど……。出来ればこの私が肖りたいくらいだ」
(だったら、先生にお譲りします)
心の中で願ったが、黒木はぽんと彼の肩を叩いて言った。
「期待に応えるんだぞ」
「は、はい」
ハンスと藤倉、それに岡崎も連れ立って地下へ降りて行ってしまった。閉じてしまった壁を見つめて井倉は絶望的な気分になっていた。
「もし、上手く弾けなかったら……」
それを思うと恐ろしく不安で、血の気が引いた。

それから30分程経った時、唐突に地下から三人が戻って来た。客達は顔面を紅潮させていたが、ハンスはすいと楽譜を井倉に手渡して言った。
「じゃあ、この楽譜の通りに弾いてみて」
「あ、はい」
彼はそれを見て愕然とした。
(そんな……! これってあまりに超絶的過ぎる)
井倉はもらった楽譜を見ながら固まった。
「ひ、弾けません。僕にはこんな……」
(リストの超絶技巧練習曲だってこれまでだ)
それでも、そこに秘められたメロディーの美しさに身もだえした。が、それを弾くには練習が必要だ。

「藤倉さん、困りましたね。井倉君は弾けないそうです。つまり、この取引は成立しないということですね」
ハンスが皮肉に笑う。
「いえ、そんなことはありません。弾いてもらえれば、すべて納得が行く筈なのです」
藤倉が冷静に進言する。
「その通り。あの素晴らしい曲を埋もれさせて置くなんてことは私の良心が許さないでしょう」
岡崎が熱っぽく訴える。皆の視線が楽譜を持つ井倉に注がれる。

「ええい! 貸してみろ! 私が弾く」
煮え切らない井倉の手から楽譜を取り上げると黒木がピアノの席に着いた。そして、さっと楽譜を一瞥すると軽やかに曲を弾き始める。それは一見華やかで甘い耽美的なメロディーだったが、ふと開いた深淵に足を踏み入れてしまったような怖さと憂いが織り交ぜられて、その哀愁が極まって行く。そんな美しい曲だった。
ハンスはじっと目を閉じて聴いていたが、ふと目を開けて黒木の背中を見た。それは底のない宇宙のような錯覚を覚える黒い瞳だった。
(あれ? どうしてだろ。今、ハンス先生の目が黒く見えた)
井倉は何度か目を瞬いてじっと彼を見つめた。しかし、そこにあるのはいつもと変わらないブルーのそれだ。

(気のせい?)
井倉はそう思い直して黒木の方を見た。曲はもうコーダに移っている。鍵盤の上を華麗に行き来する手。
(黒木先生、本当にすごい……)
彼は心から尊敬の念を抱いた。
曲が終わると、ハンスがぱちぱちと拍手した。
「すごいです、黒木さん。確かにこれは僕がさっき弾いた曲みたいです。違っていたのは2カ所だけでしたから……」
ハンスがちらと藤倉を見る。すると、黒木が軽く手を振って言った。
「すみません。それは多分私のミスタッチです」
黒木はそう言うと指を隣の鍵盤に引っかけてしまった場所と、音が出切れずに飛んでしまった場所を示した。

「なるほど。では、楽譜には間違いなくそう書いてあったのですね?」
ハンスが念を押す。
「はい。装飾音符も寸分違わず弾きましたので……」
「へえ。すごいな。いい耳を持ってるんだ」
ハンスはそう言うと藤倉の方を一瞥し、ピアノに立て掛けてあった楽譜を掴むとびりびりと引き裂いた。一同は呆気に取られて、そんな彼の行動を見つめた。
「実力はわかりました。これはもう必要ないでしょう? テストですから……」
ハンスはくくっと笑ってその楽譜をぐしゃぐしゃに丸めて屑籠に投げ入れた。
「そんな……もったいない」
黒木が屑籠の前で膝を突く。

「要らないですよ。それはただの断片だから……。僕は完全な物しか認めない。だから、曲は作らないし、売らないんです」
「でも、もし、今後お気持ちが変わるようなことがあれば、いつでも私共に声を掛けてください」
岡崎が言った。
「ないと思いますけど……」
ハンスはあっさりと言ったが、岡崎は余裕の笑顔を見せた。
「いいえ。あなたは必ず契約することになりますよ。その時には最高の条件でお迎えします」
「諦めの悪い人だ」
ハンスの言葉に岡崎は笑って応じる。
「ビジネスですから……。きっとあなたを、そして、世間にあなたの魅力をアピールして見せますよ。今夜のところはこれで失礼しますが、また近いうちにお目にかかれることを期待しております」
そう言うと彼は頭を下げて藤倉と共に出て行った。

井倉はそんなやり取りを見ながら、ハンスの心情を思って逡巡した。
(先生はきっと腕のことを気にしているんだ。レコーディングとなれば、永い時間弾き続けなければならないから……。それで……)
だからといって大丈夫ですなどと励ますのも変だし、積極的に腕のことを打ち明けて配慮してもらってはどうかなどと言える筈もない。だからと言って、あんな素晴らしい曲を世に出さないなんて罪そのものではないかという気さえした。
(そうだ。これは単にハンス先生個人の問題じゃない。人類すべての宝になる芸術的遺産だ。そのことをハンス先生は気づいているんだろうか? 僕が言ったら? でも、そんなことを言う権利、僕にあるんだろうか? ただの居候に過ぎない僕に……たまたま先生に拾われただけの僕に……)

「井倉君」
唐突にハンスが呼んだ。
「はい。何でしょう?」
茶器を片付けようと盆に載せていた彼が振り向く。
「いいからここに来てください」
いつになく厳しい口調だったので、井倉はびくっとして盆をテーブルに置いた。
「君、ピアニストになるなら、あれくらいの曲、さっと弾けなくてはいけません」
「は、はい」
井倉は背筋を伸ばして返事した。

「君は何年ピアノやって来たですか?」
「えっと、6才の時からですので、14年目になります」
「14年っていうと両手の指の数より大きい数ですね」
「はい」
「なのに何故あの程度の曲が弾けないと言うですか?」
「それは、初見で弾くにはあまりにも技巧的で……でも、練習さえすれば……」
井倉は何とか言い訳しようと必死だった。
「そうですか。では、練習しましょう。黒木さん、リストの楽譜持って来てください。『ラ カンパネラ』とか入ってる本」
井倉はそれを聞いてぞっとした。

(それって超絶技巧練習曲集ってこと? ひ、弾けないよ、そんなの……)
しかし、ハンスは笑ってその楽譜の適当なページを開いて言った。
「さあ、このページを弾いてください」
「えっと、でも、これって曲の途中ですし……」
井倉が戸惑っているとハンスはやさしく微笑した。
「弾けるところからでいいですよ」
井倉はきりのいい場所から弾きだしたが、すぐにつかえて止まってしまった。
「どうしましたか? 続けて」
「はい」
彼は慎重に楽譜を読むと恐る恐る続けた。何とか見開きの部分を弾き切ってページをめくろうとするとハンスが止めた。

「次はここ」
また別のページを開いて譜面立てに置く。それはまた別の曲の途中だ。
そうして、何度も違うページを弾かされた。それは知ってる曲のこともあれば、知らない曲のこともあった。だが、たとえ知ってる曲であったとしても、それまで経験したかどうかに関わらず、いきなり途中からだと調子が狂う。しかも、この本に収録されている曲はどれも難曲だ。それを次々と初見で弾かなければならないのだ。神経が磨り減った。しかも、弾いても弾いてもまともな曲とは思えない。いくら楽譜に書いてある通りに弾けばいいのだと言われても酷い有様だった。自分でも情けなくて涙が出て来るほどに……。
(いつまでこんなことしなくちゃいけないんだろう。これじゃまるで拷問だ)
目がしょぼついて、腕の筋肉が強張って痙攣を起こしそうだった。

「OK。わかりました。井倉君にはまだ練習が必要です。これを1ヶ月で仕上げましょう」
「これってどの曲を……ですか?」
「この本に入ってる曲全部です。大体何が入っているのかわかりましたから……。僕がやったのは子どもの頃だったので指が届かなくて困りましたけど、井倉君はもう大きいのだから大丈夫でしょう?」
「指がって……。先生は何才の時習ったんですか?」
「10才までにはほとんど弾けるようになってましたけど……。リストって手が大きかったそうで、子どもにはとても届かないような音が混じっているんです。仕方がないので速さとペダルでカバーしてましたけど……。その点、井倉君の指なら届くでしょう? 羨ましいですよ」

「そんな……。僕だって届かない所とかありますよ。それに、僕は凡人なので、この本全部を1ヶ月だなんてとても無理です」
天才と一緒にされては叶わないと静かな口調で抗議した。
「やる前から諦めてはいけません。それくらい出来ないととても秋からフリードリッヒとコンサートツアーになんて行けませんよ。僕にも責任がありますので……。何とかしなければなりません」
「でも……」
(それを言うなら、先生が自分でコンサートに同行すればいいんだ)
と思ったがさすがにそれは口にしなかった。

「まあ、そう急いても無理でしょう」
黒木が見かねて声を掛けた。井倉は援護してくれたのかと思って瞳を潤ませた。が、教授は彼の期待とは違うことを言った。
「取りあえず、地下なら遅い時間でも練習出来ますから……。何とかなるでしょう。井倉、家の仕事は私に任せて、おまえはピアノに集中するんだ。いいな? 何が何でもフリードリッヒが帰って来る前に仕上げて置くんだ」
(そ、そんな……)
井倉はあまりのことにがくりと首を垂れた。
(だったら、僕より彩香ちゃんの方が……)
ちらとそんなことも考えたが、彼女はこの件に関与するつもりはないらしく、部屋から出て来る様子はない。美樹も2階で仕事をしている。猫達はソファーで丸くなって眠っている。

(何だか僕だけがこの家の中で取り残されているような気がする)
「じゃあな、井倉、頑張って練習するんだぞ」
黒木に励まされてもとてもやれるとは思えなかった。
「時々差し入れ持って行くですよ。僕、眠らないから……」
(眠らないって、ずっと僕を監視してるってことですか? 先生)
それでも、やるしかないのだと決めて、彼は地下室に向かった。
「そうだ。やるしかない。彩香ちゃんのお父さんとの約束……。1年以内にピアニストとしてデビューする。もし、本当に秋からのコンサートに出られたら、それがデビューになる。そうだ。もっと前向きに考えよう」
井倉は無理矢理自分を鼓舞してピアノに向かった。


それから毎日、深夜遅くまで地下室で練習を続けた。そんな彼の様子を見に、ハンスや黒木が来て進み具合を確認したり、軽いレッスンのようにアドバイスを加えたりして行った。ハンスは頻繁に降りてきていたが、美樹は指導にかこつけてワインを飲むための口実にしているのだろうと言って苦笑した。
(確かにそれもあるのかもしれないけど、やっぱり先生は僕のことを心配してくれているんだ。頑張らなくちゃ……)
地下では余計な雑音がないので練習に集中出来た。恵まれた環境で練習させてもらえることに彼は感謝した。

「あれ? エアコンの調子が悪いのかなあ? 井倉君、暑くないですか?」
ある夜、ハンスが来て言った。
「そういえば、さっきから汗が……」

ハンスがエアコンのボタンを操作していたが、首を傾げて言った。
「冷たい風が出ないです。ちょっと元の方を見て来ますね」
そう言うとハンスは隣にあるキッチンのドアを開けた。井倉は水道で手と顔を洗った。見るとハンスは奥の倉庫の中にいた。そこには普段は使わない折りたたみの椅子や脚立等が収納されている。その奥に大きなコントロールパネルがあった。そこには様々なスイッチや操作ボタンが並んでいる。この家のエネルギー関連はここで一括操作しているらしい。

「前にも1度暖房が出来なくなって、ここで直したの僕、知ってるです。きっとまた調子が悪くなったですよ。井倉君、この辺にエアコンディショナーの温度調整するボタンとかありませんか?」
たくさん並んだボタンの一角を示してハンスが訊いた。
「えーと、ちょっと待ってくださいね」
英語で記された表記を必死に読んで、ようやくそれらしい物を見つけた。
「あれ? mode切り替えスイッチがheating(暖房)になっているみたいです」
井倉はそれを押すと表記が変わってcooling(冷房)になった。
「どうして切り替わっちゃったですかね」
ハンスが考え込むようにスイッチを見つめる。

「まあ、機械って振動とかに弱いですから……。ちょっとしたことでエラーになっちゃうことってあるかもしれないですね」
「そうだ。夕方、地震があったですよ。前にもそれで温度設定が狂ってたことあったです」
ハンスが納得したように言った。
「アメリカ式は地震に弱いです」
皮肉のようにハンスが言う。
「ここは暑いです。早く向こうに行ってみましょう」
ハンスはワインセラーからボトルを1本出して抱えるとピアノがあるオーディオルームに向かった。エアコンからは冷風が出て部屋は少し涼しくなっていた。

「いいですね。じゃあ、今日はこの小さなホールで井倉君のソロリサイタルを開催します。井倉君、早速お願いします」
ハンスが拍手した。
「ソロリサイタル……」
井倉は戸惑った。が、口の中で噛み締めた言葉の響きは甘美的だった。
(いつか、本当にそんなリサイタルを開けたらいいな)
そして、そこに彩香が来てくれたならと彼は夢見た。しかし、最初の1曲を弾き終わると、夢は儚く散った。

「井倉君、これでは、せっかくのワインで悪酔いしそうですよ。はじめの音が心に響かないし、中盤は左が遅れ気味。ペダルが甘いし、タイミングがずれたところが目立ちます。それに、アクセントとスフォルツァントの区別がないし、鋭さも足りない。それにレガートが……」
聞いている方が悪酔いしそうだと井倉は思った。しかし、その一つ一つが大切な指摘でもあった。
(頑張らなくちゃ……)

そうして、7月も終わりに近づいていたある日。井倉ははっとして目を覚ました。そこは地下室のオーディオルーム。彼はピアノに寄りかかって眠ってしまったのだ。
「いけない……」
彼は軽く頭を振って立ち上がった。
「今、何時なんだろう?」
昼も夜も籠もって練習していたせいで、すっかり時間の感覚がずれてしまっていた。
「お腹が空いたな」
井倉は部屋を出て隣のキッチンのドアを開けた。

「さ、彩香さん!」
そこにいた彼女を見て思わず叫んだ。
「何よ、急に大きな声を出すなんて……。驚くじゃない」
「す、すみません。まさか、ここにいるとは思わなかったもので……。あ、ピアノ弾きますか?」
「いいえ。上で練習したからいいわ。ハンス先生に頼まれたから猫達のフードを取りに来たのよ」
「ハンス先生に?」
いつもなら、彼が餌をやっている。それを彼女に頼むということは何かあったのだろうかと心配が胸を過ぎった。が、彼女は淡々と説明した。

「お二人は午後からお出かけになられたのだけれど、今夜は帰れないそうなの。黒木先生もいらっしゃらないし、それで猫達のフードをお願いしますと頼まれたの」
(それじゃあ、今は僕達二人だけ?)
井倉の鼓動は急激に速くなった。
「それから、夕食はあなたと二人で摂るようにって……。外食にしてもいいのだけれど、今は無理ね。外は雷で雨風が激しくて……。フランスパンとチーズで済ませる? ハンス先生が好きなワインを飲んでもいいとおっしゃってるの。それでいいかしら?」
「もちろんです」
彩香と二人で食事するのは、あの駆け落ち事件の時以来だった。
「はい。喜んで」
井倉はのぼせるように身体が熱くなるのを感じた。
「じゃあ、あなたはワインを持って行って。わたしは猫達にフードをあげないといけないから……」
「わかりました。じゃあ、手を洗ったらすぐに運びます」
そう言うと井倉は水道を使った。そこにもグラスはあったが、上のキッチンの物を借りればいいだろうと、彼は取り合えずワインセラーから1本取り出す。

「変ね。確か地下のキッチンの倉庫にあるっておっしゃってたのに……」
彩香が独り言のように呟くのが聞こえた。
「どうしたんですか?」
井倉が近づいて訊く。
「フードが見当たらないのよ。新しい袋がここにあるからって聞いたのに……」
積まれた箱はどれも探している物ではなかった。
「ここに猫砂はあるのだけど……」
彩香が困ったように言う。

「あ、その奥にある袋じゃないですか? 青いシートの棚の下」
井倉も中に入ると、抱えていたボトルをコーナーラックに置いて近づいた。
「違うわよ。これは園芸用」
彩香が振り向いて言う。
「きっとここじゃないんだわ」
「上の戸棚かもしれませんよ。もし、そこになかったら、先生に電話して訊いてみるしかないですね。あまり待たせたら猫達が可哀想だから……」
井倉が言った。その時。大きな金属音と共に突き上げるような振動が足元から伝わった。
「何? 地震?」
二人が顔を見合わせる。
「いいえ。多分雷よ。近くに落ちたのかしら?」
彩香が言った。耳を澄ますと、確かに低い音が尾を引くように響いている。二人は急いでそこから出ようと向きを変えた。扉が閉まっている。

「何だ。さっきの音、これが原因だったんですね」
扉は金属製で重かったので閉まった時に大きな音が響いたに違いなかった。地下には雷が鳴っていてもほとんど影響はなかった。が、猫達は怖がっているかもしれない。ましてや今、上には人が誰もいないのだ。
扉の前まで来た時、電気が消えた。何の前触れもなかった。やはり、先程の振動は落雷だったのかもしれないと井倉は思った。とにかく急いで外に出なければと手探りで扉の取っ手を掴んだ。が、どうしたことかびくともしない。
「井倉? どうしたの? 早く開けなさいよ。これじゃ、真っ暗で何も見えないわ」
彩香が急かす。先程まで聞こえていた空調や機械の音も止まり、周囲はしんとしている。井倉は取っ手を動かし、押したり引いたりして何とか扉を開けようと努力していた。が、聞こえて来るのは自分の息遣いと金属の擦れる空しい音だけだった。
「井倉?」
彩香の声も震えている。今まで聞こえなかった雷鳴が心を打ち砕くように響いて来る。井倉は懸命に周囲を探り、思いつく限りの方法を試したが、扉は固く閉ざされたままだった。彼は絶望的に呟いた。
「あ、開かない……」